馬場遼のスポーツライター道 第1話


12th Man読者の皆さん、こんにちは。最近、一部の読者の間で死亡説が流れている馬場です(笑)。最近、ここで記事を書いていないので生きているのかと疑問に思っている方もいらっしゃいますが、ピンピンしております(笑)。なぜここであまり書かなくなったかというと実は少しずつではありますが、スポーツライターとして様々なところで書くことが増えてきたからです。実際にゴールデンウィークからほぼ毎日、何かしらの原稿で書いていました。まだまだ食べていけるレベルではないですが、マイペースに頑張っていきたいと思います。ちなみに書いている媒体ですが、雑誌だと月刊陸上競技と野球太郎で書かせて頂いています。今月13日に発売された月刊陸上競技6月号では記事を3本書きました。野球太郎では来月発売の号でデビューします。他にはBCリーグの滋賀ユナイテッドのボランティアライターとしても活動しています。

さて、前置きが長くなりましたが、こうしてライター活動を始めたのでこちらで私がライターになった経緯やライター活動で感じていることを語っていきたいと思います。まあ、私のことに興味がある人がどれだけいるかわかりませんが、将来的にライターを目指している人の参考になればいいかな~って思います(笑)

私がスポーツライターになったきっかけを語るには私の生い立ちに関係があると思うので、今回は私が大学でスポーツ新聞部に入るまでの話をしたいと思います。私がこの道に進んだのはまず家庭環境が影響していたと思います。父は高校野球の監督をしていて幼い頃から母親と一緒に高校のグラウンドや大会が行われている球場に遊びに行っていました。幼稚園児くらいまでは野球にそこまで興味があったわけではありませんが、身近にあったのは事実でした。それが小学1年生の夏に父が監督をしている高校が学校として初のベスト4に進出しました。その時に私は高校野球にハマり、甲子園もずっと見るようになりました。地元の少年野球チームが小学2年生から入部できることもあり、小学2年生に上がる春に幼稚園から仲の良かった友人と少年野球チームに入りました。

いざ野球を始めてみると、甲子園に出たいとかプロ野球選手になりたいだとか野球少年なら誰もが通る道を私も経験しました。ちなみに私が憧れていたプロ野球選手は現楽天の松井稼頭央選手です。当時は西武ライオンズに所属していました。小学生の頃は自分が甲子園に出たり、プロ野球選手になったことをイメージしながら家でバットを振ったり、小学校の校庭で壁当てをしたりしていました。そうしているうちに段々高校野球やプロ野球に詳しくなって同級生の中ではかなり野球に詳しい人間になっていきました。

野球少年時代の筆者。当時は松井稼頭央選手に憧れてショートを守っていました

中学生になると私の高校野球好きは過熱していきました。甲子園期間中になると練習が休みの日に一人で甲子園に行くようになったのです。ちなみに生で見て一番印象に残っている選手は大阪桐蔭の浅村栄斗選手です。現在は埼玉西武で活躍していますが、高校時代のバッティングを見てこれは凄い選手になると感じたので現在の活躍ぶりは嬉しいです。また、この頃に箱根駅伝にもハマりました。毎年、お正月にはテレビでなんとなく箱根駅伝を見ていましたが、なぜかある時に急に面白いと思うようになって駅伝関連の雑誌を買ったり、ブログを見るようになりました。その頃は佐藤悠基選手(東海大→日清食品G)や竹沢健介選手(早大→ヱスビー食品→住友電工)がスター選手として活躍していました。中学生時代は野球太郎の前身である野球小僧や月刊陸上競技を愛読していましたが、まさか今、自分がそれらの雑誌で記事を書くようになるなんて当時は思いもしませんでした。当時どころか1年前ですら想像できなかったですけどね(笑)

高校でも野球を続けていましたが、自分の実力や今後の人生を考えて野球は高校までと決めていました。大学では何か野球以外のことをしようと考えていた時に父から大学にはスポーツ新聞部があるということを教えてもらいました。スポーツ新聞部について色々調べているうちに将来のプロ野球選手に取材できたり、出雲駅伝や全日本大学駅伝に行けたりするし面白そうやんっていう理由でスポーツ新聞部に入りたいな~と思うようになりました。当時の学力で何とか頑張ったら合格できそうだったギリギリのレベルが立命館大学だったのですが、立命大は野球や駅伝が強く、ここのスポーツ新聞部に入ったら楽しそうだと思ったので受験勉強を頑張ることができました。そのおかげで晴れて立命大に現役合格することができ、立命スポーツ編集局への入部を決めました。

少し長くなりましたが、今日はここまでにしたいと思います。次回からは何回かに分けて私の立スポ時代の話をしていきたいと思います。この話、需要あるのか…?(笑)

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